今月のことば(4月)

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    今月のことば「世の人常にいはく」

     以前のある連続研修会でのこと。
     ある方が御講師のおっしゃった「悪人正機(あくにんしょうき)」という言葉を聞いてこうおっしゃいました。
     「親鸞聖人という方はとんでもないことを言う人なんですね。悪人こそが救われるなんて言うなんて…」
     この言葉に対して、他の法中さんが色々と説明されていたようですが、本人は納得したような、納得してないような…。

     でも、難しいですよね、悪人正機。
     もとは『歎異抄(たんにしょう)』第三条の御文を根拠とする教えであります。
     本文は以下。

     善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
     しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
     この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
           (歎異抄三条より抜粋)
    【現代語訳】
     善人ですら往生をとげるのです。
     まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
     しかるに世間の人は常に、悪人ですら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。    
     この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

     これだけ見てもイマイチよくわかりせん。
     以下、自分の中で整理をする為に空想上の会話にしてみました

    (クリックして続きを読んで下さい)

    (世のひと)「いやぁ、お念仏というのはありがたいものらしいね。」
    (世のひとB)「そうだね、お念仏を称えるとどんな悪人も救われるのだそうで。そうですね、お坊さん。」
    (お坊さん)「そうですよ、お念仏はありがたいものですよ。どんな悪人でも救われていきますよ。」
    (世のひと)「なら、そんなに称えて功徳があるものならば、善人がとなえたら≪もっと≫救われていきますね。」
    (世のひとB)「そりゃそうですよ。当然当然。」
    (お坊さん)「……。いや、それはちょっと違うのですよ。」
    (世のひと)「え、違うの!?だって、さっきお坊さんは、お念仏はありがたいものだから、どんな悪人でも救われるとおっしゃったのでは?」
    (お坊さん)「はい。」
    (世のひと)「なら、善人の方が当然救われるのでは?」

    (お坊さん)
    「それが違うのです。
     そもそも、善や悪によって救われ方が変わるということは、≪救われてお浄土に生まれ仏になる≫ということがよくわかってないのです。
     たとえば、100メートルを走るのに私とカール・ルイスは全然違います。
     だって、私とカール・ルイスは持っている能力、積み上げてきた能力が全く違うのですから。
     当然、100メートルを走りきる早さは変わりますね。」
    (世のひと)「そうですね(え、いきなり何の話?)。」

    (お坊さん)「あなたの言われた、≪悪人でさえ救われるお念仏≫≪善人だとなおのこと救われるお念仏≫というのは、ちょうどこの私とカール・ルイスの背中に「加速装置」をつけるようなものです。」
    (世のひと)「ほうほう。」

    (お坊さん)「私の背中に「加速装置」がついた御蔭で私はスーパー早くゴールに着くのです。でも、同じ装置をカール・ルイスにくっ付けたら…どうなりますか?」
    (世のひと)「そりゃ、カール・ルイスの方がスーパースーパー早く着く…。」
    (お坊さん)「そうです。私が加速装置をつけて早くゴールに着けるのだから、それと同じ加速装置をカール・ルイスにつけたら…もっと早くゴールに着きます。」
    (世のひと)「ほうほう。」

    (お坊さん)
    「ここで話しを先ほどに戻します。
     ≪私≫を≪悪人≫に、≪カール・ルイス≫を≪善人≫に、≪加速装置≫を≪お念仏≫にすると…どうなりますか?」
    (世のひと)「あっ!悪人が念仏をして救われるのだから、念仏を善人がしたらもっとよく救われる…になる。」
    (お坊さん)「そうなりますね。」

    (世のひと)「このお念仏の味わいは間違っているのですか?」
    (お坊さん)「はい。」
    (世のひと)「じゃあ、お念仏は100メートル競走の加速装置ではないのですか?」
    (お坊さん)「はい。」
    (世のひと)「では、何ですか?」
    (お坊さん)「言うなれば、私を乗せて下さるロケットです?」
    (世のひと)「はぁ、ロケット?(わけがわからん…)?100メートル競走でロケットですか?」
    (お坊さん)
    「いえ、100メートル競走ではありません。
     先ほど、善や悪によって救われ方が変わるということは、≪救われてお浄土に生まれ仏になる≫ということがよくわかってないからだと申しましたが、≪救われてお浄土に生まれ仏になる≫というのは、私とカール・ルイスが百メートルを競争するという話しではないのです。」
    (世のひと)「じゃあ、どんな話しなんですか?」
    (お坊さん)「言うなれば、月に行く…そういう話しなのです。」
    (世のひと)「月?」
    (お坊さん)「そうです。そして、その月に連れて行って下さるロケットがお念仏(南無阿弥陀仏)なのです。」
    (世のひと)「ほうほう。」

    (お坊さん)
    「私とカール・ルイスは能力が全く違います。
     だから、100メートルを走るのであれば雲泥の差がつきます。
     しかし、ロケットに乗って月に行くのであればそこには全く差がないのです。」
    (世のひと)「あ、なんだかわかってきた気が…。ロケットの中でどれだけ速く走っても月に着く早さには関係ありませんよね。」

    (お坊さん)
    「だから、お念仏によって善人が悪人よりも救われるというのは、二つの間違いがあるのです。
     一つ目は、救われてお浄土に生まれ仏になるということを、善や悪といった、いわば凡夫の私の能力の有無や差異で判定しようとすること。」
    (世のひと)「なるほど、お浄土に生まれていくということは、私の能力で百メートルを走りきるとかそういう次元の話しではないということですね。」
    (お坊さん)「そうなのです。仏という大きな真如(しんにょ)の世界の中では、私たちの善も悪も無関係です。『歎異抄』には、
      
     本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念佛にまさるべき善なきがゆへに。
     悪をもおそるべからず、彌陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに。
         (歎異抄一条より抜粋)
    【現代語訳】
     本願を信ずるには、救われるために他のどのような善行も必要としません。
     如来よりたまわった本願の念仏にまさるほどの善はないからです。
     また悪もおそれるに及びません。阿弥陀仏の本願の救いをさまたげるほどの悪はないからである。
     
     とあります。
     阿弥陀さまの救いよりも自分の悪が深いと思う心。これは、信罪心(罪ありと信ずる心)です。
     そして、自らの善で仏になっていけると思う心。これは、信福心(福ありと信ずる心)です。
     これら、信罪心・信福心(※あわせて信罪福心(しんざいふくしん)と言う)は必要ないのです。」
    (世のひと)「なるほど。」

    (お坊さん)「そして二つ目の間違いは、お念仏を私の善行を加速させる手段として用いることです。」
    (世のひと)「ほうほう。」
    (お坊さん)
    「お念仏とは、阿弥陀さまのはたらきなのです。それを私の側に持ってきてはならないのです。
     先ほど、ロケットをお念仏にたとえましたが、そのロケットは「私」が月(阿弥陀さまの世界)に向けて発するものではありまえん。
     私に先がけて月(阿弥陀さまの世界)から私に向けられたのがロケット(お念仏:南無阿弥陀仏)であります。
     だから、大事なのはロケットに乗るということ。
     もっと言うなれば、阿弥陀さまから私がどのように見られ、そして、どういう手段で救われていくかということをきちんといただいていくかということなのです。 
     その世界を信心と言います。」

    (世のひと)
    「なんだか、どんどん壮大になっていきますね。
     でも、善人悪人というところに話しを戻すと、善人も悪人も同じように救われていく…それがお念仏の教えなのですか。」
    (お坊さん)
    「そうです。
     だから、阿弥陀さまの願いには「十方衆生(あらゆる人々)」という呼びかけがあり、また、お正信偈には
     「一切善悪凡夫人(いっさいざんまくぼんぶにん)」「憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんまくぼんぶにん)」
     という言葉が出てきます。」
    (世のひと)「善悪凡夫人…ほうほう。「善人」「悪人」「凡夫人」の三種類の人がいるということですか…?」
    (お坊さん)
    「いえいえ、違います。「善凡夫悪凡夫」ということです。いるのはただ一つ、凡夫人。
     仏さまから見たならば善人も悪人も同じ凡夫人ということであります。
     その凡夫人を救うというのが阿弥陀さまの願いです。」
    (世のひと)「なるほどなるほど。」


    (世のひと)
    「でも、気になることが。
     『歎異抄』には悪人こそが救われる…そういう表現があると聞きましたが。これはどういうことですか?」
    (お坊さん)「はい、歎異抄第三条にある、

      善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
      しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
      この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
             (歎異抄三条より抜粋)
    【現代語訳】
      善人ですら往生をとげるのです。
      まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
      しかるに世間の人は常に、悪人ですら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。    
      この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

     という表現の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」がそういう風に言われますね。」

    (世のひと)
    「でも、ここの言葉を見るとやっぱり、善人・悪人で救いを分けているのではありませんか?
     善悪凡夫人という先ほどの言葉と矛盾するような…。」
    (お坊さん)
    「そうですね、確かにそう見えます。
     ここは阿弥陀さまの救いの心、つまり阿弥陀さまの御慈悲の心を言っているのです。
     さきほど、阿弥陀さまの願いの前には善人も悪人もなく全てが善悪凡夫人であり、その凡夫をそのまま救うと言ったのは、いわばお念仏(南無阿弥陀仏)のはたらきであります。」
    (世のひと)
    「≪救いの心≫と≪お念仏(南無阿弥陀仏)のはたらき≫ですか…。
     なんだか複雑になりますね…。」

    (お坊さん)
    「そうですね。この御文から離れていったん、親鸞聖人のおっしゃる悪人正機という味わいから見てみるとわかりやすいと思います。」
    (世のひと)「悪人正機…。」
    (お坊さん)「阿弥陀さまの御慈悲の心を言った言葉です。「正機」とは「めあて」という意味ですので、「悪人正機」とは「悪人が救いのめあて」という意味です。」
    (世のひと)
    「…さっきは、善人悪人も同じ凡夫人で救いの対象だと言ったのに、今度は悪人が救いの目当て…ですか?
     なんだか、矛盾していませんか?」
    (お坊さん)
    「そうですね。
     ≪お念仏(南無阿弥陀仏)のはたらき≫として見るか、阿弥陀さまの≪救い(御慈悲)の心≫として見るかということです。」

    (世のひと)「つまり?」
    (お坊さん)
    「先ほど言いましたように、私たちの善・悪は阿弥陀さまの救いには関係ありません。
     それが関係あるのだと思うと…。」
    (世のひと)「あ、信罪福心になってしまう…ということですね。」
    (お坊さん)「はい。そうです。」
    (世のひと)「だとすると、やっぱり悪人正機っておかしくないですか?」


    (お坊さん)「では、こう考えてみてはいかがでしょうか。大勢の子どもを抱える親がいます。」
    (世のひと)「はい。」
    (お坊さん)「この親にとっては、全ての子がかけがえのない大切な存在です。」
    (世のひと)「なるほど、もちろんそうでしょう。」
    (お坊さん)
    「では、この子の中に、もっとも身体の悪い子がいたらどうしますか?
     この子を親は捨てると思いますか?」
    (世のひと)
    「いえ、そんなことはありません。
     慈悲深い親であればあるほど、全ての子を大切にしながらも、その子を必ず大切にしたいと思うと思います…あっ!」

    (お坊さん)「そうなのです。悪人正機とはそういう阿弥陀さまの御慈悲の御心を言ったものなのです。」
    (世のひと)「なるほど。そう考えると一応はわかりやすいですね。」
    (お坊さん)「ですね。」


    (世のひと)
    「でも、ここで大きな疑問が…なんでそう複雑になってしまうことをわざわざ言わなくてはならないのですか。
     さっきのただ、
     ≪仏さまから見たら、善人も悪人も全て凡夫人として救われていく存在である≫
     という理解だけで全てが事足りると思うのですが。」
    (お坊さん)「ほうほう。」
    (世のひと)「だって、言うじゃないですか。大は小を兼ねると。」
    (お坊さん)
    「う〜ん、大は小を兼ねるという表現はどうかと思いますが、でも、確かにおっしゃる通りです。
      本来ならば阿弥陀さまの救いの理屈を説明するのであれば、

     "歎異抄の「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」という表現は阿弥陀さまの救いの理屈に合いませんよ〜。"
     "仏さまから見たら、善人も悪人も全て凡夫人として救われていく存在ですよ〜"

      だけで全部通じるはずなのです。」
    (世のひと)
    「ですよね。なんで悪人正機ということがわざわざ言われるのですか?言わないほうが、お念仏のはたらきがわかりやすいと思うのですが。」


    (お坊さん)「それは、仏法というものが仏道であり≪私≫ということを抜きにしては語れないからなのです。」
    (世のひと)「仏道…私…?」
    (お坊さん)
    「そう、仏道です。道というのは私たち一人一人が≪我がこと≫として歩んで初めて意味があるものです。

     "あそこに道がありますね…ふむふむ。"
     "阿弥陀さまの救いってそうなのですね、そういう宗教構造なのですね、ふむふむ。"

     では無意味なのです。
     仏道とは倫理ではありません。この私という存在の実存(現実存在)に深く関わっていくものなのです。」
    (世のひと)「それを顕わしたのが、悪人正機…。」
    (お坊さん)
    「そうなのです。
     親鸞聖人が正依(しょうえ)の経典とされた『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』には、阿弥陀さまという仏さまについて説かれています。
     もっと言うのであれば、私という人間をすべて御覧になった阿弥陀さまの願いの世界。」
    (世のひと)「私と言う人間のすべて…ですか。」
    (お坊さん)
    「そう、全てです。

     ≪気が付いたらこの娑婆世界(しゃばせかい)に命いただき、誰も代わることとのできない「私」として歩む私。≫
     ≪煩悩に振り回されながら、やがては命終わっていく…終わっていかねばならない私。≫

     そんな私の全てを御覧になった阿弥陀さまの願いの世界が『大無量寿経』には説かれているのです。
     それは、端的に言うのであれば、

    ≪あなたを決してむなしい人生では終わらせません。
     あなたがお浄土に到るべき徳はもうこの阿弥陀の側で完成しているのです。
     どうか、この阿弥陀の願いどおり、浄土に参る私たであったとうなずいて下さい。
     うなずいて、その尊い人生を歩んで下さい。
     私は、全ての人の口から南無阿弥陀仏という声の仏となって、その人の人生を共に寄り添い、歩む仏となり、全ての人をお浄土に迎えます。≫

     という願いの世界であります。

    (世のひと)「なんか壮大に宗教的ですね。」
    (お坊さん)「そう、とことん宗教の世界です。」
    (世のひと)「それでどうなるのですか。」
    (お坊さん)「この願い(願力)が、「喚び声(=南無阿弥陀仏)」として私に、私達一人一人届くのです。」
    (世のひと)「喚び声…ですか。」
    (お坊さん)
    「そう、大悲の阿弥陀さまの命がけの喚び声であります。
     昔の人は阿弥陀さまを親にたとえられて、
     ≪井戸のぞく 子を呼ぶ親は 命がけ≫
     と詠まれましたよ。」
    (世のひと)「なるほどなるほど。」
    (お坊さん)
    「そして、この「喚び声」に対して、「パカッ」と自らの疑いの蓋(ふた)が取り除かれ、
     ざぶんと「喚び声=南無阿弥陀仏=阿弥陀さまの願力」が届いて下さった姿が信心です。

     ≪あなたの全てを見抜きました≫
     ≪あなたをお浄土に必ず迎えとります≫

     といる阿弥陀さまの誓いが満ち満ちた姿ですから、この「信心」とは、

     「私の全ては阿弥陀さまに見抜かれました」
     「私はお浄土に生まれるものでありました」

     という、うなずきの世界であり、届いて下さった南無阿弥陀仏が私の口からそのまま出て下さる姿が「お念仏」であります。
           左文字 おせば右文字 助くるの
           外に助かる こころやはある      利井鮮妙(かがいせんみょう)師

           たのませて たのまれたもう弥陀なれば
           たのむ心も われとおこらじ

           あれば鳴る なければ鳴らぬ鈴の玉
           中に六字が あればこそ     因幡の源左(げんざ)同行(※どうぎょう)


     という句がよく顕わしていますね。」
    (世のひと)「なんか壮大に宗教的ですね(あれ、前にも言ったような…)。」
    (お坊さん)
    「そう、とことん宗教の世界です(あれ、前にも言ったような…)。 
     とにかく、悪人正機とは阿弥陀さまの願いを「我がこと」として味わった人の世界であります。」

    (世のひと)
    「なんとなくわかった気が…。
     阿弥陀さまの 

     ≪あなたの全てを見抜きました≫ 
     ≪あなたをお浄土に必ず迎えとります≫

     を「我がこと」として味わうということですね。」
    (お坊さん)「そうです。その人の中にある信心という世界は…。」
    (世のひと)
    「さっきの話で言えば、

      「私の全ては阿弥陀さまに見抜かれました」
      「私はお浄土に生まれるものでありました」

     ということになるから…。」
    (お坊さん)「そうです、そうです。もうちょっと言うと…。」
    (世のひと)
    「阿弥陀さまに見抜かれたという私が、先の話で言えば…、

     ≪気が付いたらこの娑婆世界に命いただき、誰も代わることとのできない「私」として歩む私。≫
     ≪煩悩に振り回されながら、やがては命終わっていく…終わっていかねばならない私。≫

     なんだから…。
     あ、ここに「煩悩に振り回されている」とある!?」

    (お坊さん)
    「そうなのです。「煩悩に振り回されている」…という心、すなわち「悪人の自覚」(※専門的には機の深信(きのじんしん)と言います)はそのままが、

     ≪あなたの全てを見抜きました≫ 
     ≪あなたをお浄土に必ず迎えとります≫

     という仏さまの願いの世界を「我がこと」としていただいている姿なのです。」
    (世のひと)「なんか、かなりわかった気がします。」

    (お坊さん)
    「だから、この「悪人正機」とは、阿弥陀さまの願いの世界を「我がこと」としていただき、この私の全てを阿弥陀さまにまかせきった喜びの安心(あんじん)をあらわす言葉であります。」
    (世のひと)「喜びの安心(あんじん)?」
    (お坊さん)
    「はい。喜びの安心(あんじん)です。
     親鸞聖人は、
     
      弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
      さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと
            (歎異抄後序より抜粋)
    【現代語訳】
     阿弥陀さまが五劫ものあいだ思惟してたてられた本願を、よくよく味わってみますと、それはひとえにこの親鸞一人のためでした。
     思えばそれほどの重い罪業をもっている身でありますものを、助けようと思いたってくださった本願の、なんともったいないことか。

     と嘆じられておられます。
     そしてまた、親鸞聖人の書物には「三哉(さんかな;さんさい)」という世界があります。
     「誠なる哉(まことなるかな)」
     「慶しき哉(よろこばしきかな)」
     「悲しき哉(かなしきかな」
     という世界です。
    「誠なる哉」とは、阿弥陀様の願いを嘆じた世界であり、「慶しき哉」とはその阿弥陀さまのお慈悲の世界に出会えた喜びの世界であり、「悲しき哉」というのは自らの煩悩性・悪人性に眼ざめた世界であります。
     これらが同時に成り立ち、互いに深めあう世界が「三哉」の世界であり、南無阿弥陀仏の世界であります。
     浅原才市さんの
       ≪煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ≫
     という短歌がありがたいですね。」
    (世のひと)「良い短歌ですね。なんとなくわかったような気がします。」

    (お坊さん)「そして、またこの悪人正機における、悪人の自覚、つまり凡夫の自覚というものが念仏者の社会的倫理性・道徳につながっていくのであろうと思います。」
    (世のひと)「というと?」
    (お坊さん)「≪悪人ばかりの家には争いは少ない≫という言葉を聞いたことはありませんか?」
    (世のひと)「え、聞いたことありませんし…それって、逆なんじゃないですか?」
    (お坊さん)
    「あるところに二つのお宅がありました。
     一方は争いが絶えない御宅で、もう一方はみんな仲良く暮らしている御宅。
     争いが絶えない家の主人がもう一方の家に行って言いました。
      「あなたの家はいいですね、みんな仲良くしていて。なんかコツでもあるんですか?」
      「いえいえ、そんなものないですよ。しいて言うなら我が家はみんな、≪悪人≫だということですか。」
     争いが絶えない家の主人が「????」となっていると、家の奥からその家の奥さんの叫び声が聞こえます。
      「あなた、ごめんなさい。あなたのお茶碗割ってしまったの。」
      「あ、あの茶碗?割っちゃったの?そういえば、私が置いたままにしてたね。ごめんごめん。」
      「何言ってるの、悪いのはこっちよ。」
      「こちらこそ悪かったね。」
     二人のやりとりを聞いた争いの絶えない家の主人は
     「なるほど。確かにこれでは争いは起きない。」
     そう呟きながら家に帰りました…。
    (世のひと)「あ、だいぶわかった気がします。」
    (お坊さん)
    「人間の目は外に向かっています。だから、他人の欠点はよく見えるけど、自分の姿はあまり見えない。
     悪人の自覚というのは、仏さまの願いを頂きながら、自分の内面に目が向かっていく姿です。
     そして、その姿からは必然的に周りに対する感謝の心が沸いてくるのであります。それは、
     ≪実るほど 頭を垂れる 稲穂かな≫
     という歌の世界であります。
     そしてまたそれは同時に念仏者の尊さにも繋がっていくのではないでしょうか。
     ≪下がるほど 人の見上ぐる 藤の花≫
     という歌のように。

    (世のひと)「それが、「誠なる哉」「慶しき哉」「悲しき哉」が重なり合う世界なのですね。」
    (お坊さん)
    「そうです、そうです。≪煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ≫の世界です。
     いただきものの信心、念仏の中に阿弥陀さまの慈悲や智慧を味あわせていただきながら、その上で、御恩報謝として社会の中で色んなことをさせていただく…。」
    (世のひと)「まずは、≪我がこと≫いううなずきから出発してからですね。」
    (お坊さん)「≪我がこと≫から始まり、御信心、お念仏を味わいった上からの話です。」
    (一同)  「一緒に南無阿弥陀仏を大切にして楽しんで参りましょう。」


    (部門員/長明寺・僧侶)



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