今月のことば(8月)

0
    八月に想う  いのち・平和・生死

     縁台・風鈴・カキ氷それに浴衣でしょうか・・・・・・懐かしい日本の原風景です。それに八月はお盆の季節を迎えます。私たちは日ごろ日常のせわしさの中に埋没した日暮らしをしていますが、日ごろは宗教にも人づきあいにもよそよそしい現代人も、なぜかお盆になると、家族のつながり、ご先祖の墓参り、実家の仏壇にも心が向くようです。

    なぜでしょうか、いろいろ考えてみました。自分を迎えいれてくれる世界に愛着する人間の帰巣本能がそうさせるのか、あるいは地縁・血縁の深い絆を確かめて安心したい心がそうさせるのか。お盆は先祖を仲介にして、血のつながる親族と、地域を共にする人々との固い絆を確かめる儀式ということ、それも大事なことですが、お盆が血のつながりと地域を同じくするものの幸せと安泰に関わるだけのものであればそれは習俗としてのお盆の意味はありますが、決して仏教としてのお盆ではないでしょう。

    お盆の仏事はお釈迦様のお弟子の神通第一といわれる目蓮尊者の『救母説話』にもとづくと聴聞させていただいております。
    お盆とは盂蘭盆会(うらぼんえ)といって、原語の「ウランバナ」を音写したもので、倒懸と漢訳され「逆さまに吊るされたような苦痛」を意味すると言われています。

    目蓮尊者が神通力により母の死後の世界を観たら、母が餓鬼道に堕ちて逆さ吊りになっている姿が見え、驚いた目蓮尊者はさぞや喉が乾いておられることだろうと水を持って行くとたちまち火炎に変じて飲んでいただけない、空腹ではとご馳走を運んでゆくとたちまち火炎に変じて食べていただけない。餓鬼道とは飲食物を得られない餓鬼状態の悲惨な世界です。生前「物惜しみ」や「むさぼり」の行為をした人が堕ちていく所だと伝えられています。

    目蓮尊者はお釈迦様に、母はなぜ餓鬼道に堕ち倒懸という苦しみを受けなければならないのかを尋ねられました。母はひたすら目蓮可愛さのあまり、わが子のみに心を向け他への思いやりも慈悲も忘れ果てて愛憎煩悩に明け暮れたと思われます。目蓮の母は「むさぼり」の報いとして苦しみにあっていたのです。お釈迦様の「法会が催された最後の日に三世の衆僧にご供養しなさい」というお導きによって、母を餓鬼道から救うことが出来ましたという『仏説盂蘭盆経』に見える説話の内容よりうまれたのがお盆の始まりなのです。

    私にとってのお盆は、「ご先祖を慰霊・鎮魂・祭祀して成仏させよう、助けようと考えている私こそが実際は迷っている、助からなければならん身だと気づかせていただくこと」、私こそがお金第一の世の中で不正に目を閉ざし、人を踏みつけて、真実に背き、人間を見失っている張本人だと教えられていく、私が今は亡き人を通して仏法に遇うご縁となる仏事、それが浄土真宗のお盆でありますといただいております。

    さらに、この六十余年は第二次世界大戦や広島・長崎への原爆投下の惨禍、戦争の愚かさや悲しさを教えられ、いのちや生死を深く見つめる時期でもあります。しかし今、私たちは季節感を失い、生活にメリハリをなくし、伝統行事の意味を忘れようとしています。”二度と戦争は起こしてはならない”と誓った世代から、子や孫へと世代を経るごとに平和への思いが薄らいでいるように思います。いのちや平和の根底が揺らいでいる時代であり社会だからこそ、お盆の異議を振り返ってみたいのです。また、お盆に相集う親しい者同士がいのちや平和や生死について語り合い、新しいお盆の異議が生まれることを真宗門徒として学び続けたいと思っています。

    (部門員/光妙寺 門徒)


    calendar

    S M T W T F S
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    252627282930 
    << November 2018 >>

    selected entries

    categories

    archives

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM