[コラム] 後の世に残すもの

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     後の世に残すもの  中尾流一

     3月11日東日本大震災が起こりました。大自然の前に人間の作り出したものがいかに儚く、ちっぽけであるかとことが明らかになったと共に、人が助け合ってしか生きていけないこと、また、その力があることも見せてもらっているような気がしています。何かができないものかと思いながらも、寄付を募ることぐらいで。日々の法務をこなす中、三か月前の緊張感がなくなってきていることを恥じる日々です。

     今回の震災では、地震、津波による甚大な被害があったと共に、深刻な問題をはらんでいる原発の事故もおこりました。三か月が過ぎた今も終息のめどがたっていないようです。

     1903年キューリー夫妻とアンリ・ベクレルの三人が「放射現象に対する研究」によってノーベル賞を授与されて百年。原子力が兵器として開発され広島、長崎に投下されて66年、原子力発電として平和(?)利用されるようになってから50年。この百年の間に人類は目覚ましい発展をとげ、快適で便利な世界を実現してきました。ウチワは扇風機となり、扇風機はクーラーとなり。馬車は蒸気機関車となり、ガソリン自動車となり、電気自動車となり。エネルギーの中心は石炭から石油へ、石油から原子力へと発展してきました。

     しかしその裏では、1979年のスリーマイル島原発事故、1986年のチェルノブイリ原発事故、そして今回の福島第一原発事故、そのほかにも各国で数々の原子力発電所で事故は起こされ、人の立ち入ることのできない地を生み出してもきました。

     以前「地下深く 永遠(とわ)に〜核廃棄物 10万年の危険〜」というテレビドキュメンタリーを見たことを思い出します。

     その番組によると、今、原子力発電を利用している世界各国が頭を悩ませていることに、原子力発電によって出される核廃棄物の問題があるそうです。中でも先進的にその問題に取り組んでいる北欧の国、フィンランドでは、世界に先駆け核のゴミの最終処分場の建設に乗り出しているそうで。その「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」)と呼ばれる処分場は、堅い岩盤層を深さ500mまで螺旋状に掘り下げた先に作られ、完成するとフィンランド国内で排出される核廃棄物の百年分を収納できるそうです。

     しかし、核廃棄物の最終処分が難しい本当の理由はその先にあります。

     埋設された廃棄物は、あくまで生命に影響を及ぼすことのない地下深くに埋められたにすぎず、その廃棄物自体が出す放射線が生物にとって安全なレベルに下がるまでには、ヨーロッパの基準で少なくとも10万年かかるそうなのです。

     つまりオンカロは、人類の歴史にも匹敵する膨大な歳月、安全が確保され続けなければならないのです。人類の歴史が後世に残されるようになって四千年?五千年?その二十倍もの間、継続してその安全性を保証し、後のいのちに、その保証、管理を託し続けていかなければならないのです。

     番組の中で最も危惧されていることが紹介されていたのは、今の人類が滅亡した後、未来の知的生物がオンカロに侵入し放射線を流出させてしまうことだそうです。そうならないよう、そこが危険な場所だという警告をし続けなければなりませんが、はたしてどのようにしてそのことを伝えればいいのか?文字は残っていないでしょうし。石碑に彫ったドクロマーク?危険を想起させるような絵?ムンクの「叫び」がいいのではないか?いやいや何かを残すとかえってそこが目印になって、好奇心から掘り出してしまうのではないか?だから何も残さないほうが安全である。等々、そんなことがまじめに研究されているのだそうです。

     福島原発の問題では、頻繁に「想定外」という言葉が連発されています。しかしここで言われる「想定」とはたかだか百年、二百年のことだったのでしょうか。生命に影響を及ぼさなくなるまでの十万年という長いスケールで考えるならば、当然、大きな戦争や革命や大規模な気候変動や地殻変動。当然、今回のような地震、津波。あらゆる人知をこえたことが想定されなければならなかったのでしょう。そもそも十万年という時間は、百年のいのちの人間には、あまりにも長すぎ、想定を超えた不可思議な時間であることを知らねばならなかったのだと思います。

    ・少欲知足
     知足の人は地上に臥すと雖も、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦意に称わず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。『仏遺教経=お釈迦さま臨終の際の最後の教え』訳:足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている。しかし足ることを知らない者は天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。

     足ることを知らずとは、便利さ快適さを求め続け、たかだか百年の科学技術に慢心し、十万年後のいのちにまで危険を及ぼすものを作り出しながら生きている私たちのことではないでしょうか。

     また、今回の震災では死者、行方不明者22000人をこえる犠牲者が出ています。しかし一方で家畜やペット、海や川や山に生きる人間以外の多くの動植物、そして自然が壊滅的な被害を受けています。地震、津波の被害者ということではどちらも同じく被害者ということになるのでしょう。しかしこと、原発ということでいえば、人間という加害者が、人間以外の被害者に及ぼした一方的な人災と言わざるをえません。

    ・粟散辺州 (ぞくさんへんしゅう) 
     親鸞聖人がこの国、日本の事を言われた言葉です。粟粒を散らしたような端っこの国、日本という意味です。そこには、お釈迦様が誕生され法を説かれた国、インドを本州とみられていたことがうかがえます。

     粟粒という言葉の中には、他のいのち、後のいのちの事を顧みず人間中心の世を刹那的に生きる私たちに。つながりあった大きないのちの世界の片隅で、共に譲り合いながら、助け合いながら生きていく、 そんないのちが立地する場所を示して下さっているのではないかと思うのです。

     お釈迦さまが説かれた教えは、人から人へ、国から国へ、シルクロードを越え、海をこえ千年をかけて粟粒のような国、日本に伝わりました。さらにそこから五百年のときをかけ、人から人へ人から人へ、親鸞聖人のもとへも届けられました。それからまた約八百年をへた2011年、親鸞聖人を継ぎ、念仏の教えを守り伝えて下さった数々の人たちの手をへて私たちのもとにも届いています。

     人間は十万年後のいのちを脅かすものを生み出しながら生きることもできます。しかしまた、二千五百年後の人たちへ、大切な仏教の教えを伝え残していくこともできるのです。
     くしくも東日本の悲惨な状況をまのあたりにした本年2011年は、親鸞聖人の750回大遠忌法要を迎える年でもあります。私たちが、何を託され、何を後の世にのこしていくことがででるのか。立ち止り、真剣に考える機会が開かれているのではないでしょうか。

    (終)


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